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リンチ 『都市のイメージ』

人文地理学的
これだけは読んでおきたい 《都市・空間》 論(5)

ケヴィン・リンチ
『都市のイメージ』
The image of the city, 1960
(丹下健三・富田玲子訳、岩波書店、1968)

↓ 小生のエッセーはこちら(Moreをクリックしてください)。



人間が環境をどのように知覚するのか。それは今もって地理学における大きな主題のひとつである。教科書的にもよく知られているように、このような問題関心がはっきりと示されたのは、1960年に相次いで発表された(今ふりかえると記念碑的な)諸論文であったが、それらのなかでも特筆すべきは都市的な環境におけるイメージの実態を三つのアメリカ都市―ボストン、ジャージーシティ、ロサンゼルス―に探った、この分野では先駆的な書物であるケヴィン・リンチの『都市のイメージ』であった。建築家の丹下健三らによって早くに翻訳出版されたこともあって、日本でも学際的に知られていることと思う。

ここで、本書を取り上げる意義は三つある。まず、その表記法はいまもって多くの関心を引くこと。さらに、50年前に出版された本書は、1960年代以降、学問分野を問わずにさまざまな影響を及ぼしたこと、そしていまだ別様の可能性があるように思われるからである。

5つのエレメント
本書が大きな影響を持ち得たのは、ほかでもない都市の全体を一枚の図にあらわす表記法を開発したからであろう。よく知られるように、都市の住民の大多数が共通して心に抱く都市イメージ、すなわち「パブリック・イメージ」の考察を通じて、リンチはその独創的な表記法を構成する以下の5つの要素を発見したのだった。

① パス(経路path):街路・運河・鉄道など、移動に利用される道筋であり、他のエレメントを関連づける役割を持つことから、それらよりも卓抜した存在となる。一般にパスの起点と終点が明瞭であればあるほど、そのパスは強いアイデンティティを持つ。

② エッジ(境界edge):パスと同様に線状であるが、通路としてではなく、二つのエリアの境界となったり、地域を隔離する、あるいは移動をさえぎる(空間的な)障壁として感じられるもの。河川、高架道路、鉄道、海岸線など。

③ ディストリクト(区域district):何らかの一貫した性格によってアイデンティティを形成している面的な広がり。公園やオフィス街などのように機能的な特徴だけからでなく、高級住宅地区や黒人居住区のように、社会経済的あるいは人種的な特徴もディストリクトを形成する。

④ ノード(結節点node):駅や交差点など、都市の内部にある主要な地点。パスが集合する地点に形成されることが多く、行動の起点や目的地(終点)、あるいは通過点となる。

⑤ ランドマーク(目印landmark):ひときわ目立つ建造物、塔、看板、山など。覚えられやすい特徴を有し、位置を認識する手立てや道標となるもの。

リンチによると、これらの各エレメントは、離別しているのではなく、一般にディストリクトはノードから組み立てられ、エッジに囲まれ、そこをパスが貫通し、ランドマークに彩られている。そして彼は、これら5つの要素に分解される(あるいは逆にそれらによって可視化される)都市環境を構造・アイデンティティ・意味からなる空間として捉え、都市プランナーの立場から前二者に焦点を合わせて議論を進めていくのである。

ここで重要なのは、結果的にというよりも、むしろ初っ端から意味が捨象されていることであろう。逆に言えば、そもそもこの枠組みでは意味を捉えることができない、ということを示している。

リンチに多大な影響を受けたと思われるイーフー・トゥアンが、同書を「都市住人のメンタル・マップ(心理地図)」研究の嚆矢と評価しつつも、そこに示された都市イメージは、あくまで特定の社会階級のイメージであることに注意を向けたように、それは階層・ジェンダー・人種を超えた(忘却した?)ところで成り立つ、合成された地図であったことに留意しておかなくてはならない。

トゥアンの指摘を待つまでもなく、この手の批判はいくつも出されたものの、結果としてリンチ流の調査・表記法がいまだに愛好されているのは、やはり都市全体を一枚の図として表象しうるからであろう。モダンな〈視の体制〉は、ここでも都市論を根底で支えている。

序章「環境のイメージ」の再読
最終的に一枚のイメージ・マップに集約されることになる心象を引き出される側、つまり共通のイメージを抱く「彼ら」ないし「市民」とはいったい誰なのか、という問いがつねにつきまとうなかで、地図化の力は甚大とみえる。いまだ地理学専攻の卒業論文で主題として取り上げられることもままあるし、わたしが担当している文化地理学の授業で期末に印象に残ったトピックのアンケートをとると、毎年きまって約3割程度の受講生が都市のイメージにまつわるリンチの議論を挙げる。

『都市のイメージ』出版後、読み手側の関心は5つの要素によって組み上げられる合成地図に集中したきらいがあり、必然、参照されるのは、それらが詳細に議論される第2章以降であった。だが、あらためて読み直されるべきは、序章の「環境のイメージ」であると思う。というのも、都市を相手に格闘するリンチ自身の立ち位置が明らかになるのがこの章だからであり、後の議論ではあまり省みられることのない都市思想をそこに垣間見ることができるからだ。

まず冒頭で彼は、「都市を眺めるということは、それがどんなにありふれた景色であれ、まことに楽しいことである」と告白しつつ、次のように述べている。

どの瞬間にも、出来事や眺めには、目で見、耳で聞くことができるものよりも多くのものが隠されていて、われわれに探検されるのを待っている。なにごとも、単独ではなくその四周の情況、その時までに次々に起こった出来事、そして過去の思い出との関係において、体験される。

後に人文主義的な地理学の関心の的となる、視覚に限定されることのない「空間の経験」に対して、彼が関心を向けていたことは間違いない。つづけてリンチが「……イメージは記憶と意味づけに満たされている」と述べるとき、思わず想起されるのは、ハーヴェイ流の相関空間の概念であろうか。『都市と社会的不平等』における乾いた定義づけから、ヴァルター・ベンヤミンを経由することで、夢や(集合的)記憶、そして詩、音楽……が溶け合うような、諸関係が内面化される空間概念として再定位されたのだった。

しかしながら、リンチ自身は記憶や意味を掘り下げることはなく、イメージの合成から導出される可視的な物的構造にばかり目を向けたのである。場所感覚や空間の経験のあり方を追究する人文主義的な地理学との分岐点は、このあたりにあったと言えるかもしれない。「意味作用と機能との葛藤」が「都市計画家たちの絶望の種になる」というロラン・バルトの指摘を信じるならば(「記号学と都市計画」)、リンチは周到にこの問いを避けていたのかもしれない。

可視的な物的構造への着目は、彼の都市の美学を浮き彫りにする。たとえば、都市の美しさを「わかりやすさ/読みやすさlegibility」―空間的な読解可能性―にあると考えるリンチは、次のよう説明を引き合いに出す。

環境の中の神秘とか迷路とか意外さのなかにも、かなりの価値があることは認められなければならない。……しかし、これには二つの条件が必要である。第一に、基本的な形態や方向を見失う危険、つまりそこから抜け出せなくなってしまう危険があってはいけない。意外さというものは一定の枠組の中で起こるべきであり……迷路や神秘は、さきにつきつめて調べればやがて理解できるような形態をそなえていなければならない。

さらにリンチは一歩踏み込んで、次のように主張する。すなわち、「迷ったlostという言葉は、単なる地理的なふたしかさというよりもはるかに重大な意味を含んでいる。それは徹底的な不幸を意味するのである」、と。いかにも都市計画者らしい主張ではあるが、なにゆえ「不幸」なのか。

そこには、都市空間の地図を(頭のなかで)作成できないとき、人は都市の経験から疎外されてしまうのだという信念が見え隠れしている。リンチの都市のイメージ論には、都市の全域global/局所localをめぐる問題系が構成されていたのである。

リンチにとって都市に必要なのは、諸個人が全体のなかで各自の位置を簡単に把握することのできるような空間構造にほかならない。都市の全域/局所の双方がともにイメージされやすいことが求められるのだ。そのように読み取りやすい環境(つまり、秩序のある環境)こそ、まさに「大きな座標系として、あるいは、行動、信念、知識などを組織するものとして役立つ」というのである。

この点に着想を得て、フレドリク・ジェイムソンはアルチュセールのイデオロギー論を接ぎ木しつつ、グローバル化の各局面における「コグニティヴ・マッピング認知地図作成」の必要性を説いた。「空間的な地図を作成できなければ都市の経験が疎外されるのと同じように、社会の地図を作成できなければ政治的経験もまた疎外される」のだ、と。

さて、ここでリンチと同じ「読みやすさ」をキーワードにして都市計画批判を展開したルフェーブルの議論は想起されてよいだろう。彼は『空間と政治』のなかで、次のように述べている。

視覚的な読みやすさは、グラフィックな読みやすさ、エクリチュールの読みやすさよりも、はるかに巧妙で、しかも罠にかけられた(「罠をかけている」とも書くべきだろう)ものである。あらゆる読みやすさは貧しさからやってくるものだ。

この指摘は、ミシェル・ド・セルトーの論点とも相通ずるものがあるのだが、いま一度リンチの都市の可読性に関する「都市内の各場所が人々にイメージされやすく、しかもそれらの場所の全体での位置づけが容易である」という、全域性globality/局所性locality双方のimage-abilityについて、別様の観点からとらえ返してみよう。

たしかにトゥアンやジョナサン・ラバン(『住むための都市』)が正しく指摘するように、「都市のイメージ」では居住分化という社会-空間的な次元を捉え切れないことはできない。けれども、それでもなおポール・ヴィリリオの言うように「都市生活者はそのひとりひとりが都市計画者であるが、自分ではそれを意識し」ないまま、頭の中の地図を用いて、「時間と場所の統一性に関するエキスパート」であるかのごとく、都市内を移動するのである。

ヴィリリオ流の解釈はこうだ―「都市生活者は、みずからの運動性によって、またそれと同じくらい市街地の交通網システムによってプログラミングされている」。つまり、身体は地理情報を蓄積する機械であり、「〈都市〉は、場所に関するわたしの記憶が活性化するなかで現前する」ものにほかならない。この活性化を可能にするのが、「心的地図」というわけだ。

そして、「交通網のプログラミング」が「結果的に位置標定と心的適応のシステムをもたらす」がゆえに、「身体と固有世界が、もっとも近いところにあるものからもっとも遠いところにあるものまで、たがいに共鳴するようになる」のである。こうしてわたしたちは、再びジェイムソン流の認知地図作成へと舞い戻る。

『都市のイメージ』は、ポストモダン都市の空間-内-身体に関する議論の基盤をいまだ支持していると思うのである。
by ponton1102 | 2015-07-08 11:22 | 人文地理学 | Comments(0)


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